昭和51年07月23日 月例祭



 夏の信行も、いよいよ後わずか一週間あまりになりました。もう日を追うに従って、それこそこの炎天をものともせずに、合楽合楽と集まってこられる方たちが、ここのお広前にあふれます。そして一時から若先生の先唱。若い修行生の先生方青年会の方達の、それこそ割れるような大祓信行が始まります。もう本当に合楽名物になりました。もう本当に初めての方なんかお参りして、あの勢祈念の中に入りますと。もうそれだけでおかげを頂いていよいよ後一週間ですから。
 まだ修行に信行に参加しておられない方は、一日でも二日でも参加されて、勢祈念とはこんなに有り難いものだという、体験をなさる事が良いと思いますね。今日の昼の信行のいわゆるミニご理解ですけれども、御理解第40節でございました。『重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。』というご理解でございました。この信行が始まりましてから、合楽に移り合楽が教会と呼ばれるようにならせて頂いてから。
 この方ですから、もう9年になる訳でありますが、この180何ヶ条の教典が、その夏の信業の一月の間だけ一回ずつ読み、そして理解を頂いて続けられておるわけです。それもいわゆるミニご理解で一口のご理解であります。これを十年祭にはちょうど2辺通りを頂き終わりまして、記念出版さして頂きたいと言う様な話がございます。今日のご理解を私が頂いてから、ちょうどこれをここの四十節の所を頂いたのが、指折り数えますと6年前になるそうであります。
 だから6年前の事を末永先生がずっと控えております、雑記帳をここへ持ってきておりますから、そのノートを開いてみまして、今日の40節のところを開かして頂きましたら、この合楽の久保山さんの事が出ております。久保山さんが熱心にその当時お参りをして見えて、そしてその朝御祈念の後にお届けをされた事がそのまま残っております。今日も昼の信行に参加しておられましたから。
 お届けされるのにちょうど6年前のこの40節をあなたの事があのありますよ。あのままの信心が進んどったら今頃はもうお徳を受け取ったでしょうね、と言うて話した事でした。そしてその6年前のこの40節を読ませて頂いたんですけれども、こういうお届けをなさっておられます。ちょうどこの暑い盛りですから、もうそれこそ炎天の中に少しばかりお百姓をなさっておられます。
 そして草取りをしてある事が書いてある。もう本当にこの夏の草というもの、雑草は取っても取ってもきりが無い。限りがないほど取ったかと思うともう又生える。それを今日はさして頂きましたが、本当に雑草を取り除かせて頂きながら、しかも後から後から生えて来るその雑草を思わして頂きながら、自分の心の上にもこれと同んなじように、それこそ磨いても磨いても身が鉄ならばでありましてね。
 もう本当に改まるに改まり、磨くに磨きしておるようであるけれども、自分というものを振り返ってみる時に、自分の心のなかに、いわゆる雑草的取り除かなければならないものが、次から次からはえてくるのに驚くばかりである。ちょうどこの雑草のようなものであろうと、自分の心を深く見詰めさせてもらいながら反省させて頂きながら、金光様金光様と自分の心の草を取るような思いで、御用さして頂きましたら暑いのも感じず。
 時間の経つのも忘れて、おかげを頂きましたと言う事が書いておられます。家業を勤め勤めするがよい。そうでしょうが家業を勤め勤めするがよい。しかもこの暑かち草ば取らにゃならん。もう本人もいくら取ったっちゃ同じこっじゃけん、もう取るめえと言った様なものではなくて、それを自分の心の上に頂いて自分の心も郭もあろうかと反省させて頂きながら、金光様金光様を念じながらおかげを頂いておるというのであります。
 昨日のご理解の中に、39節は『此の方の行は、水や火の行ではない。家業の行ぞ。』と言うのでございます。その家業の行と言う事について、新しい新解釈のご理解があっておりましたが、その後にちょうど昨日、あの朝福岡の戎浦さんからお電話が掛った。奥さんの方から。今看護婦の免許を持っておられますから、ある病院に勤められておられます。その病院の院長夫妻というのが、もう実にえげつない方らしいんです。ですからもうその看護婦たちが、もう一時も続かないらしい。
 なるほど噂には聞いとったけれども、やっぱりひどい方達だと。そこでその毎日が不愉快な皆んなの不平不足ばかりを聞かせて頂いて、自分もつい不平不足の中に混じってしもうておったけれども、これでは信心にはならんと思いまして、2、3日前から、院長さんの言われる事を、親先生が言われる事だと頂こうと決めたというのです。そしたらね、一日締め括ってみると、もうとにっかく親先生が言われる様な事を、言うておられる事に気がついた。
 それを親先生が言われる事だと思うてハイと承る、その心が自分ながら自分で心を拝みたい様な心が頂けて来る。あくる日から先生それが、今日はどう言う事を言われるであろうかと、今日はどう言うご理解を頂くであろうかと、言う風な頂き方になってきたら、楽しゅうなって有り難うなりました。とその事だけのお礼のお電話がございました。なるほど此方の行は水や火の行ではない。それこそ火の行や水の行に匹敵する様な事が起きて参りますけれども、それを修行として姿勢を作っておるのですから有り難い。
 いわゆる家業の行とはこう言う様な事だと。金光様のご信心とは有り難い、もう家で一生懸命仕事する事がもう修行じゃから、お参りせんでん世かと言った様な意味にとっておる人がありますけれども、これは大間違い。修行そのものが例えば家業そのものが、どんなに真面目に忠実に働いても、それが生活のために若しなされるならば、それは家業の行にはなりません。お生かしのおかげを頂いておるその神恩報謝の心が、御用さして貰う、御用さして貰うから給料も頂く。
 言うならば繁盛もするというおかげに繋がって、初めて家業の行と言う事になるのです。食うために働くと言う様な事をよく申しますけども、それではどういう素晴らしいはたらきが出来たと言うても、神様はそれを行としては受けては下さらない。今日この40節を頂きまして、ちょうど6年前のこの40節が久保山さんの事が出ておりましたが、今日の御理解を頂きますと、最近は朝御祈念が終ります。そうすると大体3人でお取次ぎさして頂きますから、8時ちょっと過ぎには終ります。
 皆さんがその頃を見計らって、もうひっきりなしに電話が掛ります。それが全部お礼のお届けであり又はお願いのお届けでございます。だからご結界にまぁ電話が置いてあると言うとこは、合楽だけだと思うんですけれども、お電話ではご無礼になる。お電話では失礼になると言う事は無い証拠に、皆んながおかげを受けておるという事実でございます。だからこの神様はあんた電話でお届けして来たけんで、おかげはちょこっとばっかりやろうと言う様な神様じゃない事が分かるです。
 電話ででもええ。人にことづけてでもええ。おかげを受けると言う事はそうであります。けれどもね信心を頂こうとすればそんな訳には参りませんと、今日はお話がしてありますね。信心を頂こうと言う事になるとそんな訳には参りません。いよいよ御教えを頂く事が楽しみになり、修行をさせて頂く事が有り難うなり、信心が好きになれば信心は楽なものですとございます。そうですよね。どんなに難しい事であってもです、好きな事であるとならばです。それは実に楽しいもの。
 若い方たちがねリュックを担いで、この暑いのに高い山を目指して、いわゆる登山をなさいます。この暑かつにもうご苦労な事と、まぁ年寄りは思いますけれども、実際に登っておる人達は、それこそ場合には危険をも冒しながら山を征服するというか、その山登りを楽しみにするように、信心もおんなじです。信心をしておるから、神様が修行を求め給うような場合すらございますのですから、けれどもその修行が有り難いんだ。教えを受ける事が有り難いんだ。
 その教えが血になっていくんだ、肉になっていくんだと言う事が自分に分かる、感じられる。はぁこれがあの世にも持って行けるのだな、この世にも残しておけるのだなと、言う事が分かって来るようになるから、信心が言わば好きになれば信心は楽だと言う事が分ります。今日は遠隔地から沢山お参りがあっております。佐賀、熊本は、まぁ近い所です。今日は金光のこっちから言うと手前に、里庄というところがあります。里庄からちょうど今日の午後の3時ごろお参りして、してこのお祭りも頂いております。
 明日までおかげを頂こうというのです。先程お祭前に玉串を揚げられた方がございましたですね御霊様に。あの方は福岡の上原さんという、魚市場の女社長さんです。もう何年か前に東京へ行かれました。そしてそれこそもう危篤の状態になられました。自分がおかげを頂いておる教会に、電話をかけてお取次ぎを願われた後には、留守番の姪御さんが一人留守番をしておられた。早速お取次ぎを頂いてお願いしたところが、今度はおばさんはもう難しかばいと、まぁそこの先生は非常にこう霊的な事が分られる訳です。
 難しいとで姪ごさんビックリして、日頃おばさんが言うておるところの、合楽にお参りを。その時私はちょうど1月の24日でございましたから、中島の上滝さんのところの宅祭りに行くべく、準備をしておりました。必ず4時半には迎えに来にゃならんのが、5時半になっても迎えに来んのです。そうしておるところへ、駆け込むように参ってきたのがその上原さんの姪ごさんでした。も親先生実はこうこうだ。いや助かるよって。神様が一時間も待たせてお取次をさして下さるのだからおかげ頂くよと。
 もうそれから大変喜んで、あの合楽の先生が助かると言うて下さったので、と言うて電報を打って、それから1と月ばかりたって、無事退院のおかげを頂いて元気になって、今日になっとられるのです。とまぁいろいろな難儀なああいう、難儀なというか様々な大きな問題があるのですけれども、その大きな問題を一つ一つおかげを受けられて、今日はそのお父さんのお立ち日になる、帰幽日になりますので昼いろいろお供え物を持って、今晩お参りをさせて貰うからと言う事でございましたら。
 そこへちょうど東京のご親戚の方が御礼に見えられた。実はおばさん父の事をお願いして頂いとった、この人は大体白血病でした。もう三日しか持たないと言う事を電報で受けられて、早速そんなら私が参りよるところの、神様にお願いをするからと言うて、お願いをしてご神米をすぐ送られた。今日そちらのご本人の息子さんがお礼参拝、今日玉串を上げられた方がそうなんです。東京からわざわざ今日お礼参拝してこられた。というのはね、白血病から何とかガンになったそうです。
 もう白血病の時には、もう三日しか持たないと言う事です。ところがね御神米を頂かれてから、その病気の名前が変わってなになに癌と言う事になった。だからこれも先ずは助からないガンだそうですけれども、それが先日の事ですね胃がんになった。そんな事があるだろうかと。白血病がなになに癌になって今度胃がんになった。そんな事が有り得るだろうかと。と例えばありえない、とても普通の医学では考えられないような、奇跡が起きております。
 そして本人は血色も良くなり、ご飯も頂かれるようになり、起き上がってあのオリンピックのテレビを見ておりますというお届けでございました。だから今日のここにあります、言うなら電話一本ででも電報ででも、ただおかげをうけると言う事においては、変わりがない事が分りますけれども、信心を頂くと言う事になると、そうではないと言う事を皆さんに聞いて頂きました。
 今日は、久留米の稲垣さんからこういうお届けがございました。宮崎に弟さんがおられます。熱心な稲垣さんのお導きで、合楽に4、5日前もご夫婦でそれこそ夜を一晩がかりでお参りをして見えて、一晩あっちへ泊まって、そしてあくる日の昼の信行を頂いて帰られたんです。その時にお礼を言うとられましたけれども、稲垣さんに喜んでのお話の中にです、お得意さんからお金を少し貸してと、少しと言うか少し纏まったお金を貸してくれと言う事であった。
 何か商売を開くところがその方は、自分家の大事なお得意さんではあるけれども、ちょっと遊び人がかったご夫婦とも、あんまり評判の良くない方。そこでご主人は○○教会に参っておられますから、すぐその事のお取次をなさったら、そげなものは貸しちゃいかん。もう絶対貸しちゃいけないよと言われた。そればってんお得意様の事だから断りも出来ん、そんなら合楽の先生にお伺いしようというて、電話であのお伺いがあった。
 ところがあのう神様はそれは、貸してもよかろうと言う事であった。それでなら合楽の先生がよいと言われるから、貸そうと言う事になった。その翌々日先方からありゃいらんごつなったからと言うて断ってきた。もう本当にもう○○先生が言われるようにしとったら、お得意様を一軒取り逃がすとこじゃった。本当におかげを頂いてもう気持ちよう、んなら貸してあげようと言う事を言ったから、向こうも大変喜ばれた、そして神様のご都合っちゃほんとに恐れ入る。向こうの方から断って来たと言うのです。
 だからこの次に又なら借りがあっても、今度は例えば断ってももう親切というのは一辺通うておるから、まぁ良かったというのです。けれどもこの辺のところに、天と地ほどの開きがここから始まって来るですよね。やっぱりこれも稲垣さんの弟さんが鹿児島におられます。鹿児島のある教会にお参りをしておられ、そこの先生の姪御さんをその弟さんがもろうておられる。ある問題でその自動車で出られたまま帰ってこられない。それで捜索願を出したら良かろう、どうしたらよかろうとかと稲垣さんから電話があった。
 で私がいりませんよと警察に言う事はいりませんよと、おかげ頂きますよと言うてお取次ぎさせて頂いておりましたら、今日見えてから稲垣さんがお話なんですよ。おかげで間もなく帰って見えられた。まぁそこの先生が言われる事は、もう本当にもうあんたはこの世のものじゃないと思うて、葬式の事まで考えとった。家内なんかはもうその事からずうっと朝から泣きの涙じゃった。親戚に当たられる訳ですから。そうりゃ私の為に御心配かけました。まるっきり先生が恩着せられる様な感じだと言う訳であります。
 今日はその事を私達研修の時に、それを取り上げさせて頂いたんですけれども、日田の国師さんの場合でもそうであった。ここに御縁頂かれたのは、御主人との問題で裁判問題で離婚の訴訟を起こしておられた。それも自分が御取次ぎ頂くところの先生が、そんな訳なら早う分かれた方がよかろうというので裁判にされた。そしてもうギリギリと言うところになった時に、ここへ参って来られたのが初めてであって、決して夫婦別れをしてはいかん、こちらが裁判の方はなんち言うんですかね。
 払い下げと言う訳でもないかなぁ、まぁあのこちらから取り消してもらう手続きを取りなさいと言う琴であった。まぁそん時にもう本当にそうしなければおられないような、有り難い御理解を頂かれて、今日におよんでおるんですけども。どうですか毎日その御主人が日田からここまで奥さんを送ってみえます。と言う様に4人の子供がそんとき若し別れておったら、どうなるだろうかと。だから信心を例えば頂いておられる。いや合楽で信心を稽古なさっておられるという方達の場合はです。
 あの本当に運命の岐路に立った時に、それこそ天が地になるような地が天になるようなおかげの方へ、展開していくおかげを頂いておるのでありますから、それにはただ奇跡的なおかげ、おかげというそんならもうそれこそ、電話ででもよかれば手紙ででもよい。人にことづけるでもおかげは受けられるに致しましても、信心を頂くと言う事になると、そんな訳にはいけない。
 そこでじゃ信心を頂くとはどういう事かと。今朝からのご理解を頂きますと、合楽では私が力があるとか、私が立派だと言う事ではないけれども、合楽で伝えられるところの日々の、御理解が素晴らしいんだと言う事であります。そしてその時その都度都度にに一つのスローガンが出される。合楽示現活動に参画する、いま合楽の人達はこれに燃えておらなければならない。今月の焦点はいよいよ太くなろうというところに、焦点が置かれて、日々の信心の稽古がなされておかなければならない。
 そういう一つの大きな合楽の動きにです、便乗させて頂いての信心であるか否かと言う事を、先ずは確かめてみなければならない、というご理解でございました。信心を頂くと言う事は、ただ自分が奇跡的なおかげを不思議なおかげを、まぁ頂くとか願うと言う事だけではなくて、信心を分かって信心を好きになる。信心が楽になる楽しゅうなる。そこまでおかげを頂いていくためには、いつも合楽の動きに、私共が敏感な信心神経を働かして、今親先生の祈りが、合楽教会大発展の御神願御成就に相成りますように。
 五つの願いもさる事ながら、いよいよ合楽示現活動に参画さして頂く、その内容として今月はどう言う様な事があっても、ひとつドン腹で受けていこう。黙って治めていこう。太く大きくならせて頂こうと、言う様な願いを持っての信心になります時にです。合楽と共に繁盛のおかげ、合楽と共に信心が進展して行くと言う事にもなるのでございます。皆んなただ電話ででも、そんな奇跡的なおかげ頂くなら、私もと明日から電話しようと言った様な事ではなくて、どうでも信心を頂くと言う事にならなければ。
 人間の本当の幸せはありえません。折角頂くならばいつまでやらんなんだろうか、いつまでこげなというのではなくてね、久保山さんの例を6年前の例、お話を聞いてもらいました。戎浦さんの奥さんのね、信心生活日常の生活をかく受けようと腹を決めたら、もう明日が楽しゅうなったと言う様な、そういう信心をです、身に付けて行くというおかげを頂いて頂きたいと思います。
 先ほどマイクで、あの言っておられましたけれども、徹底してないような感じが致しましたが、あの何日からですかね丸少の合宿は。25日から丸少が言うならこの次の時代を担う丸少の方たちが、勉強にまたは信心に一週間ですか、一週間合宿をしておかげを頂きます。それにあのうお野菜が足りないそうです。ですからお漬物とかお野菜とか、皆さんが工夫して集めて頂くと、当番になっておられる婦人部の方達が、あの受け持っておられますけれども、ま助かられる事だろうと思います。どうぞご協力をお願い致します。